『おかけになった番号は、電波の届かな……』
練はふうっと大きくため息をついて携帯電話の切ボタンを押した。この味気ないアナウンスを聞くのは、今夜何度目だろうか。携帯電話を助手席に放り投げ、愛車の座席の背もたれに思い切り体を投げ出した。
首都高を西へとあてどなく走らせ、どこかのインターチェンジで高速を降り、そのまま更に目的もなく車を進めた。気が付けば辺りは見知らぬ山の中だった。ここがどこなのか見当もつかないが、標識がどちらへ向かえば自宅に戻れるのかを示しているから道に迷ったという焦燥もなく、走行距離を見てもそれほど遠くまでは来ていない。おそらく都内だ。窓の外の夜目にも緑あふれるここは、少しだけ故郷を思い出させた。時刻は深夜0時を少し回ったところ、あたりは月明かりよりも煌々と照らす街灯がまぶしく、情緒もへったくれもねえな、と練は鼻で軽く笑った。
ふいに、つきりとした痛みに反射的に左胸に手を当てた。古傷が痛むというような表面的なものではなく、もっと体のずっと内側からくるもの。そんな痛みは気のせいでしかない。だがもしこの痛みが積もり積もったら死んでしまうかもしれないという不安に駆られて車に飛び乗ったことを思い出す。道すがら幾度となくかけた電話は繋がらず、気付けばこんなところまできてしまった。まるで子供だな、と自嘲したときまた同じ痛みが胸の内を走った。
――左胸が、うずく。
まるで左胸の蝶が羽ばたこうともがいているかのようだった。
――誠一、あんたが残した痕だ。
もしこの蝶が皮膚から剥がれて飛んで行ってしまうならば、行く先はやはり誠一の元なのだろうか。だが、行かせないぞ、と練は意地悪く笑う。行くならば、もし行けるならば俺も連れて行ってくれ、どうか。
誠一が残した蝶と二人きり、世界のすべてが滅んでしまったかのような静寂に不思議な安堵を感じていた。このままこうして朽ちるまでいられたら。そうしたら誠一の横に再びいられるのだろうか。
泥の中にでもいるようなねっとりとした静寂を破ったのは携帯電話の無機質な電子音だった。
『もしもし?』
今、一番聞きたくなくて聞きたかった声にはわずかに心配そうな気配が混ざっていた。おそらく練からの着信が何度もあったからだろう。その声に練は静かな声で答えた。
「遅いよ、龍」
自分の頭を掴んだあの指の熱が蘇る。つきつきと存在を主張していた左胸の蝶は、その熱を嫌がるかのように再び胸の奥底へと眠りに落ちていった。
2014.5.3 たちばな惑子@RECKONER