Bubbles
練は眼鏡を外し、ふぅっとひとつため息を吐いた。
仕事をするのは嫌いじゃない。ディスプレイに向かうのは自分の性に合っている。だが、時々虚しくなる。どっと疲れを感じる。
椅子の背もたれに体重を預け、目を閉じて目頭を指でマッサージすると、指で押した先からドクドクと血液が流れているのを感じた。
滞っていた血が流れ出す。ちらちらと白いものが瞼の裏に浮かぶ。
そこへ愛しい男の像が結ばれた。
練は苦笑いした。
『小娘みたいな奴だな』
以前龍太郎にそう言われたことがある。
自分でもどうかしていると思う。
まるで自分は恋に振り回される小娘のようだ。
練は一人小さく笑って、どのくらい会っていないかな、と軽い気持ちで指折り数えてみた。小娘の真似事のつもりだった。
だが、片手を往復しても足りなくて、数えるのをやめた。
無性に悲しくなった。泣きそうだった。
出所してからはもう少し頻繁に会えると思っていたのに、予想以上に自分の周囲が騒がしい。
覚悟していたこととは言え、もどかしい。
組なんて、本当はどうでもいい。
ただ、誠一の意志が執念が練をこの世界へ縛りつけている。
だが、嫌な訳ではない。
誠一の望みは叶えたいと心底思う。
――それが誠一に救われた自分の存在理由だから。
おそらく自分はこの先、そちらの道に進むことになるのだと、己のことを漠然と考えた。
そして墜ちた自分を龍太郎は捨てるのだろう、きっと。
あの男の内面は潔癖すぎる。
墜ちきった自分を受け入れられはしない。
練は机に突っ伏した。
目頭が熱くなる。鼻の奥がツンとする。
涙が、溢れてきた。
せっかくプリントしたグラフが滲んでしまう。
分かっていても止まらなかった。
いっそ、海外にでも逃げてしまおうか、とできるはずもないことを考えた。
……そんなことができたら、どんなにいいか。
夢想は虚しさに拍車をかけただけだった。
次々と、涙が溢れた。
ふと、机に置いてあった携帯電話が振動した。
無視しようかとも思ったが、今は大事な時期だ。些細なことも見逃せない。
練は電話のディスプレイを見ずに手探りで通話ボタンを押した。
「もしもし」
練のかすれ声に、電話の向こうはしばらく無言だった。
沈黙にいぶかしんだ練が携帯電話を耳から離そうとしたとき、遠慮がちに問いかける声が聞こえた。
『練?』
タイミングが良すぎるこれはもしかして、自分の恋心からくる幻聴だろうか。
『練?』
だがもう一度、同じ声が携帯電話を通じて聞こえた。
『あれ? 間違えたかな』
練はうつ伏せのまま口元を緩めた。しょっぱい涙が口の端から滑り込んだ。
「間違って、ないよ」
『練? ……泣いてるのか?』
「……」
練は答えられず、嗚咽が漏れないように息を静めるだけで精一杯だった。
『練? 何かあったか?』
練は喉の奥から声を絞り出した。
「……ないよ。何も、ない」
思ったよりもしっかりと声が出たのに、麻生の心配そうな声色はそのままだった。
『……今から行く。着くまでには泣きやんでてくれ』
泣いていたと決めつける龍太郎がおかしかった。やはり龍太郎は自分を小娘扱いしている。
だから練は小娘のように甘えてみた。
「どうして? あんたの胸で泣かせてよ」
『やっぱり、泣いてるのか』
「泣いたら、だめ?」
『おまえの泣き顔には弱いんだ。何でも言うことを聞いてやりたくなる』
練は笑った。
「そんなこと言われたら、余計泣き止めないじゃん」
『何を、して欲しい?』
龍太郎の思わぬ真剣な声に、練は冗談で返す。
「きっと、無茶なこと言うよ、俺」
吐息のような微かな笑い声の後に、龍太郎は続けた。
『言ってみろよ。言うだけなら、タダだ』
それに少し笑うと、練は言葉を選んだ。
僅かな沈黙の後に選んだ言葉を発しようとすると、喉が震えた。断られるのはわかっていても、答えを聞くのが怖い。でも、言ってしまわないと、この涙は止まりそうもなかった。
「お願い。ここからさらって。二人で、逃げよう」
『…………』
龍太郎の沈黙が練を押しつぶす。
――言わなければ、良かった。
後悔しかけたころに、龍太郎の優しい声が聞こえた。
『いいよ』
肯定の言葉に、止まると思っていた涙が尚いっそう溢れ出した。
練は涙声を隠そうともせずに言った。
「できもしないくせに、簡単に引き受けるなよ」
『できるよ。おまえが、本当に望むのなら』
でもな、と電話の向こうの声は続けた。
『俺にもおまえにも、やり残したことがありすぎる。全てにケリをつけられたら、二人でどこか別の国に住むのもいいな』
「そんなの、いつになるかわかんないじゃん」
やっぱり、と練は思う。
会話の端々で龍太郎の清廉を垣間見て練は絶望する。
間違いなく、自分は捨てられる。
練は泣き笑いした。
この先、二人が一緒にいる道が、見えない。
どこにも、見つけられない。
世の中、叶わない夢ばかりだ。
でも。
叶う望みだって、きっと、ある。
「とりあえずは、今、あんたに、会いたい」
電話の向こうの龍太郎の息が、少し弾んだ。
『それならすぐに、叶えてやれる。待ってろ』
返事を待たずに切れた電話を握りしめた。
涙は止まらない。
走り出した龍太郎がここに来るまで涙は止めないでおこうと決めた。
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何でこの二人の電話のシーンてやたらと萌えるんだろう、という思いからの突発。
(20100510)